| 都七福神 | 宝恵かご | えびす船 | 最古の宝船図 | 泉涌寺七福神 | 二十日ゑびす | 七福神Q&A |
| 七福神って何?そのご利益は? | |
| なぜ七なの?八福神の方が末広がりで縁起がいいのでは? | |
| 七福神信仰(七福神巡り)はいつから始まったの? | |
| エビス、ダイコク、ビシャモン、・・・・七福神の紹介順(読み方の順)が決まっているの? | |
| 七福神を漢字で表記するといろいろあるようですが、どれが正しいの? | |
| 七福神と宝船はどういう関係? | |
| (参考)七福神関係の歴史年表 |
| 七福神って何?そのご利益は? | |
| 恵比須神、大黒天、毘沙門天、弁才天、寿老人、福禄寿、布袋尊をいいます。 恵比須神 「恵比寿」・「夷」・「戎」・「胡」とも表記されます。七福神中唯一日本の神(異説あり)、由来については各説あり。 イザナギ・イザナミの最初の子「蛭子(ひるこ)」説 イザナギ・イザナミの三男「夷三郎(えびすさぶろう)」説 大国主神の子「事代主神(ことしろぬしのかみ)」説 「少彦名命(すくなひこなのみこと」(一寸法師の原型)説 「塩土翁(しおつちのおきな)」説 「山幸彦(やまさちひこ)」説 また、一方では外国からの渡来・漂着説 等々があり、いろいろな要素が集約・統合された。 そのうえで漁業と商売繁盛の神として定着した。 有名寺社は、西宮神社(西宮市)・今宮戎神社(大阪市)・ゑびす神社(京都市)。 大黒天 インドのシヴァ神の化身の一つ。仏教に取り入れられてからお寺の守護神、日本へは最澄が「台所の神様」としてもたらした。日本では昔から大国主神があり、この「大国」と「大黒」が次第に一体視されやがて大国主神風の大黒天像が作られ、一般に広まっていった。大黒天の性格ははいろいろ説かれていて一定していない。 仏教に取り入れられてからも富と財力を与える福の神、戦闘の神等であったりしたが、豊作・財福の神として定着した。 有名寺社は、比叡山の延暦寺(京都市)。 弁才天 インドの河川の神。仏教に取り入れられてからわが国では技芸の神として受け入れられ、古来の「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」と同一視され、琵琶を持つ色白の美女の姿に表されるようになった。江戸時代に入ると福徳の神として信仰されるが、その理由として、吉祥天と混同されたこと。「才」は「財」に通じることによる。 現在ではほとんとが「弁才天」より「弁財天」と表記されている。財福・学芸・学問の神として定着した。 有名寺社は、厳島神社(広島県宮島町)・江島神社(藤沢市)・竹生島神社(滋賀県琵琶湖)。 毘沙門天 インドの財宝福徳を司り、インドの北を守る善神。 単独で信仰される場合は「毘沙門天」、四天王の一人としての場合は「多聞天」と呼ばれることが多い。 仏教に取り入れられてから仏法の守護する四天王の一人として北方を守護し、財宝富貴を司り、また仏法の守護神とされる。 よって福徳・戦勝の神として定着した。 有名寺社は、鞍馬寺(京都市)・信貴山歓喜院朝護孫子寺(奈良県生駒郡)。 寿老人 竜骨座の中の「寿星」または「南極老人星」と呼ばれている星を人格化したもの。昔の中国では皇帝の寿命を支配する星と考えられ、皇帝自らの長寿と天下の平和を祈った。唐の時代に入ると現在のような姿になった。 長寿の神として定着した。 有名寺社は、行願寺革堂(京都市)・長安寺(東京・谷中)。 福禄寿 宋の時代になると「寿星(南極老人星)」が違った姿で描かれるようになった。それが現在の福禄寿の姿である。 福禄寿の名前の由来は、道教で理想とされる「福」・「禄」・「寿」(幸運と子孫に恵まれ、金銭に恵まれ、長生きすること)のことだといわれている。 よって延命長寿と福・禄の神として定着した。 有名寺社は、赤山禅院(京都市)。 布袋尊 七福神中唯一の実在の人物だが、唐末期の長丁子と号した禅僧の契此(かいし)、宋時代の僧の了明、元の布袋(法名は正一、道号は孤峰)、元末の棗陽(そうよう)の張氏の男の計4人が布袋和尚に擬せられている。彼は釈迦没後の56億7千万年後に現れる弥勒菩薩の化身といわれたが、わが国では当初受け入れられなかった。しかしながら当時の禅僧を始め、民衆に布袋の和尚の楽天的な生き方等が徐々に受け入れられていった。 よって福徳・円満の神として定着した。 有名寺社は、万福寺(宇治市)。 その他 寿老人と福禄寿が同一であるのを嫌った江戸の識者が寿老人を省き吉祥天や猩々を加えた七福神を提唱したが、結局は現在の七福神が支持され、これらは一部の地域で伝わっているそうです。 また、福助・お多福・宇賀神・虚空蔵も七福神にはならなかった。 このページの先頭へ |
| なぜ七なの?八福神の方が末広がりで縁起がいいのでは? | |
| 仏教の「七難即滅、七福即生」、中国の「竹林の七賢人」が由来とか、「七」という数字の神秘性の位置づけとか、いろいろな説がありますが、どれも正しいと思います。私見で根拠はありませんが、室町時代に福神信仰がはじまったとすると、京都・鎌倉五山等で見られるように禅宗が大きく発展し、社会的に大きな影響力があった時代でもあり、武士階級だけでなく民衆にも禅宗を啓発・普及させる手段として、禅僧がこれまで個別に信仰されていた鞍馬の毘沙門天、比叡山の三面大黒天、西宮の恵比須、竹生島の弁才天だけでなく中国から道教の神を追加して集約して考えだしたのではないかと思います。 その結果、これらの七福神が京の町衆文化として受け入れられ、江戸時代に入ってもより一層民衆の支持が続き現在の七福神(別神もありますが、六とか八にはならなかったのは深い理由はないと思います。)になったと考えています。 1804(文化 1年)頃、江戸で福助が大流行し、福助・お多福等をを加えて八福神にという話もあったようですが、結局大衆には支持されずに現在の七福神に落ち着いたようです。しかし、現代の一部の地域では、七福神ではなくて八福神巡りを新しく作っているところもあります。 このページの先頭へ |
| 七福神信仰(七福神巡り)はいつから始まったの? | |
| 「京都七福神」を発祥(室町時代後半、年代不明)とし、やがて江戸へ伝わり、江戸から全国へ伝播していったものといわれています。京都で人気のあった「夷」・「大黒」を軸に鞍馬の「毘沙門天」、禅画の画材として流行していた「布袋和尚」、仙人風の福禄寿星が「福禄寿」と「寿老人」の二神に分けて加えられ、そして鈿女命(うずめのみこと)であったのが、竹生島弁才天の流行に伴い、これとすりかえられ、現在の七福神の原型ができあがった。 よって、七福神信仰は京都が最初であるが、現在のような七福神巡りは、江戸から全国に広まったようです。 このページの先頭へ |
| エビス、ダイコク、ビシャモン、・・・・七福神の紹介順(読み方の順)が決まっているの? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 全国56コースの七福神を調べました。 「福を呼ぶ・幸運を呼ぶ七福神」(木耳社出版)から下表のようになりました。
この結果から七福神の紹介順(読み方の順)は、@エビス、Aダイコク、Bビシャモン、Cベンザイテン、Dジュロウジン、Eフクロクジュ、Fホテイでした。 このページの先頭へ |
| 七福神を漢字で表記するといろいろあるようですが、どれが正しいの? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
書籍によって表記が異なっていますが、全国56コースの七福神を「福を呼ぶ・幸運を呼ぶ七福神」(木耳社出版)から調べました。
この結果から漢字表記の多いのは、@恵比寿、A大黒天、B毘沙門天、C弁財天、D寿老人、E福禄寿、F布袋尊でした。 このページの先頭へ |
| 七福神と宝船はどういう関係? | |
| 宝船は、京都の五條天神社(年代不明)で売り出されたのが最初といわれている。図柄は稲を積んだだけの簡単なものであったが、だんだん進化して、江戸で1839〜1843(天保年間)頃に宝船の中に七福神等(最初の製作者、販売場所等は不明です。)が描かれはじめ、江戸の人々の間ではその宝船を正月2日の晩に敷いて寝ると良い夢をみて、縁起が良いと信じられるようになっていきました。 なお、七福神が乗り込んだ宝船に回文(上から読んでも下から読んでも同じ文句になる歌)が書き込まれています。この文を読んで寝ると幸運を授かるといわれています。 「なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」(長き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな) このページの先頭へ |
| (参考)七福神関係の歴史年表 |
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| 724(神亀元年) 聖武天皇が行基を勅使として竹生島宝巌寺に遣わし、天皇自作の弁才天をご本尊として安置する。 770(宝亀 1年) 鞍馬山に唐招提寺の鑑真の高弟鑑禎が毘沙門天を祀る草庵を結ぶ。(鞍馬寺の前身) 788(延暦 7年)頃 最澄が比叡山延暦寺東塔大黒堂に大黒天・弁才天・多聞天(毘沙門天)の三天合一の三面六臂大黒天を祀る。 905(延喜 5年) 式内社で「大国主西神社」があり、現在の「西宮神社」(西宮神社の創建は不明)との説あり。 1100頃(平安末期) 西宮ゑびす社に属する「傀儡子(くぐつし)」が人形を操りながらゑびす信仰の伝播・普及をはかる。 (室町時代) インド、中国の神々を集めた福神信仰が伝わる。 室町時代の京都の世相および福神の活躍を題材にしたお伽草子の「梅津長者物語」、「大黒舞」、「牛頭天王縁起」等がある。 1446〜1473(文安3年〜文明5年)の瑞溪周鳳の日記、「臥雲日件録抜尤」によると、1406(応永13年)正月足利義満が周鳳の師、無求周伸らにこの年の正月に「寿星像(寿老人)」を贈ったという。 1411〜1422(応永18年〜応永29年)の醍醐寺座主日記、「満済准后日記」並びに1416〜1448(応永23年〜文安 5年)の伏見宮貞成親王日記、「看聞御記」に正月の間、「七福神の舞い」等を宮廷・幕府・豪家を訪問し披露したとの記述あり。 1489〜1492(延徳年間) 僧秋月が鐘馗、大黒天、福禄寿、布袋の4福神の絵を描いている。 1558〜1592(永禄〜天正年間) 西宮ゑびす社に属する傀儡子一団が宮中に参入して人形操りを上覧。 1676(延宝 4年) 京都の黒川道佑の「日次紀事(ひなみきじ)」で七福神信仰について記す。 1712(正徳 2年) 1805(文政2年)発刊の「扁額軌範」所載の「七福神戯遊之図」(正徳 2年の銘あり)で八福神が描かれている。 1781(天明 1年)〜1800(寛政12年)頃まで 黄表紙(挿絵入りの小説)」で七福神を題材したものが多く出版される。「通言神代巻」、「蛭子大黒壮年過」、「福神江島台」等。 1784(天明 4年) 四方山人出版の「返々目出鯛春参(かさねがさねめでたいはるまいり)」で七福神巡りを記す。 1804(文化 1年) 「隅田川七福神」始まる。 1804〜1817(文政 1年〜文化14年)の出来事を記した 十方庵敬順の「遊歴雑記」に七福神巡りの記述あり。 1809(文化 6年) 江戸で正月に配布された宝船の図柄は、宝船の中に打出の小槌一つを大きく描かれて人気を呼んだ。(七福神の姿はない。) 1818〜1830(文政 1年〜天保 1年)頃 京都で「東山七福神」始まる。 1823(文政 6年) この年発刊の柳川亭の「享和雑記(きょうわざっき)」に「谷中七福神」の記述あり。 1838(天保 9年) この年発刊の「東都歳時記」に正月に七福神巡りをしたとの記述あり。この頃「山手七福神」発足か? 1840(天保11年) この年発刊の「三養雑記」に吉祥天・猩々が入っている七福神の説を紹介している。 1942(昭和17年) 武者小路実篤、狂言「七福神」出版。 七福神信仰(七福神巡り)の流行について 第1期の流行 概ね1800〜1860(江戸後期・文化・文政期〜万延期) 江戸各地で七福神巡りが創設され賑わう。江戸から全国へ広がっていく。 室町期から流行していた松囃子はすたれていった。 第2期の流行 概ね1900〜1935(明治後期〜昭和初期) 松囃子から分化したといわれる七福神踊りの継承、七福神舞の創設等で賑わう。 また、全国各地で七福神巡りが創設されたり、すたれた七福神めぐりの再興等があり。 宝船に乗り込んだ七福神の回文が人気を呼ぶ。 第3期の流行 概ね1950〜現在(戦後〜平成期) 特に1975(昭和50年)以降、七福神巡りが全国各地でかなりの数で新設・再興されている。 これは観光資本の参加、寺社の働きかけ、町おこし、人々の嗜好等、色々な要素が入り混じり大盛況が続いている。 このページの先頭へ |
| Q&A全般の作成については、「【図説】七福神・福をさずける神々の物語・」(戎光祥出版)から引用しました。 |
| (2004.09.08) |