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| 廬山寺 追儺式鬼法楽2008 〒602-0852 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397 電話 075-231-0355 2008年2月3日(日)午後3時から 詳細は、廬山寺のホームページへどうぞ (京都市の立看板から) 廬山寺(ろざんじ) 日本廬山と号する圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)という。天慶(てんぎょう)元年(938)慈恵大師良源(しえだいしりょうげん)(元三大師・がんさんだいし)が船岡山の南麓に開いた與願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。寛元(かんげん)3年(1245)、法然上人に帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲路に廬山寺を開き、この2ヵ寺を兼務した廬山寺第3世明導照源(みょうどうしょうげん)上人(1339〜1368)によって廬山寺を與願金剛院に統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。 その後、応仁の兵火に遭い、天正元年(1573)、当地に移った。現在の堂宇は、1788年の「天明の大火」による炎山以後のものである。 当地は紫式部の邸宅跡で源氏物語執筆の地と伝えられ、本堂前の「源氏の庭」には「紫式部邸宅址」の石碑が立っている。 本堂には、恵心僧都(えしんそうず)の作と伝えられる阿弥陀三尊等が安置されている。そのほか、国宝の慈恵大師自筆遺告状、また、重要文化財として、鎌倉時代の如意輪(にょいりん)観音半跏(はんか)像、後伏見天皇及び正親町(おおぎまち)天皇の宸翰、法然上人選択集などを蔵し、境内には、光格天皇父の閑院宮典仁親王(慶光天皇)陵などがある。 良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという故事に由来する2月3日の節分会は「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する行事が行われる。 京都市 |
追儺式鬼法楽(ついなしきおにほうらく)の最後に福餅と一緒に撒かれた紅白の蓬莱豆(左の写真)。紅白の豆を一粒ずつ食べると6年長生きすると説明していました。追儺 (新村出編 広辞苑第四版 岩波書店 から) 宮中の年中行事の一。(旧暦の)大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。舎人の鬼に扮装したものを内裏の四門をめぐって追い回す。大舎人長が方相氏の役をつとめ、黄金四つ目の仮面をかぶり、玄衣朱裳を着し、手に矛・盾を執った。これを大儺(たいな)といい、紺の布衣に緋の抹額(もこう)を着けて大儺に従って駈けまわる童子を小儺とよぶ。 殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。古くは中国に始まり、わが国には7世紀末、文武天皇の頃から伝わり、社寺・民間にも行われた。 近世、民間では、節分の行事となる。「おにやらい」「なやらい」とも。 鬼の法楽 (新装版 京都事典 村井康彦編 東京堂出版 から) 上京区寺町広小路の廬山寺で行われる節分の追儺法会。鬼を悪霊の象徴とみなして、これを追い払う行事で、松明と剣を持った赤鬼、斧を持つ青鬼、槌を持った黒鬼が本堂に入るが、松葉をくすべられて堂外に逃げ、群衆から豆を投げられて追い払われるというもの。また節分にちなんだ鬼踊りが行われるということで「鬼踊法楽」ともいう。 |
(廬山寺の立看板から)紫式部 大貮三位 歌碑 大貮三位 作者は名は賢子と言い、父は右衛門権佐・藤原宣孝、母は、紫式部 長保2年(1000)に出生、永保2年(1082)薨じた。親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母となり、従三位典侍に昇進した。三位であると共に太宰大貮・高階成章と結婚したため、宮廷では大貮三位と呼ばれた。 歌人としては母親に匹敵するほどの才媛で、歌集「大貮三位集」を遺した。極めて聡明で人徳があり、乳母典侍として、後冷泉朝の宮廷文化の昂揚に大きく寄与した。 (上 写真の歌) (有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする) 紫式部 紫式部は、越後守・藤原為時の娘で、名は香子と言ったらしい。生年は天延元年(973)頃、没年は長元4年(1031)頃と推定される。夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子に仕えた。 中古36歌仙のひとりとされ、大作「源氏物語」のほか「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。その文名は遍く知られており、ユネスコによって、「世界の偉人」のひとりに選定されている。 ![]() 平成7年(1995年)9月 文学博士 角田文衛 撰 (上 写真の歌) (めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな) |
| (2008.02.05) |