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| 京の風物詩 北野天満宮 ずいき祭 2005年10月 1日(土)午後 1時〜 西大路通にて神幸祭を撮影。 この行事は、毎年10月1日から5日間の祭礼で、1日は神幸祭(御旅所へ)、2〜3日は御旅所で祭礼。4日は還幸祭(北野天満宮へ)。 5日は后宴祭(北野天満宮にて)が行われる。 このずいき祭は京都市の無形民俗文化財に指定されている。 御旅所 おたびしょ (ネットで大百科 世界大百科事典から要約 ) 神社の祭礼のとき,神輿 (みこし)(あるいは神幸船) が渡御 (とぎよ) して一時安置される場所のこと。 御輿宿,頓宮ともいう。 八乙女 やおとめ (新村出編 広辞苑第4版 岩波書店) @8人の少女 A大嘗祭、新嘗祭、神今食(じんごんじき)など皇室の神事に神饌を献って奉仕する采女(うねめ)。 B神に奉仕し、神楽などを舞う少女。 汗衫(かんさん かざみ) (新村出編 広辞苑第4版 岩波書店) 汗取りの単の短衣。平安時代以降、宮女・童女などの上衣となる。儀礼の童女の汗衫は、闕腋(けってき)裾長で、濃袴(こきのはかま)に表袴(うえのはかま)を重ねる。 水干 すいかん (新村出編 広辞苑第4版 岩波書店) @糊を用いず水貼りにして乾かした絹。 A狩衣系の装束。製法は狩衣に似ているが。菊綴(きくとじ)を胸に1ヵ所、背面・右左の袖の縫目に4ヵ所、いずれも2つずつ付けることと、丸組の緒を前面領(えり)の上の角と背面領の中央とに付けこととがちがう。 地は沙・精好(せいこう)・平絹など、色は多くは白で、袴は直垂(ひたたれ)の袴に似ている。古くは民間の常用服であったが、後に公卿の私服、元服前の少年の晴着などに用いた。 輦 れん (新村出編 広辞苑第4版 岩波書店) @天子の乗物 A手ぐるま。腰車。 纓絡 ようらく (新村出編 広辞苑第4版 岩波書店) @インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。頭・首・胸にかける。また、仏像などの装飾ともなった。瑶珞(ようらく) A仏像の天蓋、また建築物の破風などにつける垂飾。 以下は、北野天満宮発行のリーフレットの引用です。 北野天満宮瑞饋(ずいき)祭 由緒(要約) 北野天満宮ずいき祭の名称は、祭礼期間中御旅所に奉安される「ずいき御輿」に由来しますが、その歴史は古く、西ノ京を始めとする氏子の祭は、室町時代には行われていました。この祭に、明治時代になって神幸祭(神様が氏子地域を巡行する祭)が取り入れられ現在の形が整いますが、この神幸祭は一度絶えてしまったのが氏子の人々の手によって復興されたものです。 毎年8月4日に行われる当宮の例祭は、かっては北野祭と称し、官祭(国から一定の経費の支給される祭)として本殿祭と神幸祭が一体となって行われていましたが、応仁の乱により神幸祭が途絶え、長らく中断されました。 明治の初め、この神幸祭の復興を願った多数の氏子有志が梅風講を組織し、諸具を整え、祭典の必要経費を負担すること等を条件として京都府に請願した結果、明治8年、私祭(官祭に対して経費を自己負担する祭)として許可されたのです。 再興なった神幸祭は、10月1日に西ノ京御輿岡の御旅所へ渡御、3日間奉輦の後、本社に還幸という現在の日程に定められ、従来の北野祭の8月4日には、例祭として本殿祭だけが斎行されるようになりました。またずいき御輿も祭礼期間中御旅所に供えられ、10月4日の還幸祭にあわせて氏子区域を歩くようになりました。 (以下略) ずいき御輿について ずいき祭期間中、北野天満宮御旅所には「ずいき御輿」が奉安されます。 この御輿は、里芋の茎である「芋苗英(ずいき)」で屋根を葺くことからその名がありますが、その他の部分も柱、纓絡(ようらく)に至るまで、全て野菜やゆば、麩等の乾物で装われ、御輿の周囲には新穀で作られた人物花鳥獣類が毎年異なった趣向をこらして飾りつけられ、人々の注目を集めています。 御輿の型は、本社の神輿に倣ってか、もともとは八方形の葱華輦(そうかれん)型で、江戸時代初期に六方鳳輦(ほうれん)型に変わり、その後四方千木型に変わって今日に至っています。 もともとは西ノ京に住んでいた天満宮の神人(じにん)が、余暇に自作した作物に草花を飾りつけて天神様にお供えし、五穀豊穣を祈願したことに始まると伝えられ、、慶長年間に御輿型が定着しました。 その後、西ノ京だけでなく、大将軍、紙屋川、上七軒等の氏子区域でも各々御輿が作られ、互いに新奇を競い合うようになりました。なかでも大将軍の御輿は天保4年、仙洞御所において光格天皇の叡覧に供されるという栄に浴しており、また、大正天皇が東宮(皇太子)であらせられた明治43年10月には、京都御所内で西ノ京のずいき御輿の台覧を得ています。 最盛期にはその数八基に及んだと伝えられていますが、その多くは年とともに廃絶し、今日では「ずいき御輿保存会」の手で西ノ京の御輿が存続しているのみとなっています。 |
| (2005.10.20) |