12月 京の風物詩 綱掛祭2005

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京の風物詩  綱掛祭  

2005年12月23日(金) 京都市東山区今熊野椥ノ森町42の新熊野神社(いまくまのじんじゃ)にて撮影。

樟(くすのき) (ネットで大百科 世界大百科事典から)
 庭園,神社,寺院によく植えられ,また暖地の街路樹にも用いられるクスノキ科の常緑樹木で,ふつう樹高25m、直径80〜150cmになるが,ときには樹高 40m以上,直径5〜8mに達する巨大なものがある。
 関東地方以南,四国,九州から台湾,中国南部,インドシナに分布し,丈夫で育ちやすいので各地に植えられる。樹皮は灰褐色から暗黄褐色で,縦に細かく割れる。葉は互生し,葉柄は2〜3cm、葉身は長さ6〜9cm、幅3〜4cmで卵形〜楕円形,やや革質で表面に光沢がある。(中略)
 葉をはじめ樹体全体にショウノウ (脳) を含み,芳香をもつ。木材は黄褐色〜淡紅褐色の散孔材。気乾比重約0.52 で,比較的軽く,加工しやすい。ショウノウを含むため耐朽性,耐虫害性がきわめて高い。玉杢 (たまもく),如鱗杢 (じよりんもく) などの美しい杢目 (もくめ) を示すことがある。
 大材が得られ保存性が高いことから社寺建築の柱や土台に用いられた。そのほか家具,彫刻欄間,建築壁板,仏像などの彫刻,木魚,細工物,器具,古くは丸木舟の製作など広い用途がある。(以下略)

後白河上皇 (ネットで大百科 世界大百科事典から)
 第77代に数えられる天皇。1127‐1192 (大治2〜建久3)
 在位1155‐1158年。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。母は待賢門院藤原璋子。近衛天皇急死の後,鳥羽院,美福門院,藤原忠通の意向で,後白河の子 (後の二条天皇) を即位させるための暫定措置として 1155 年 (久寿2)29歳で即位。翌56年(保元1)鳥羽院の死を契機に,皇位継承問題に摂関家の内紛が絡み,武士をとりこむ形でが勃発(保元の乱)する。勝利をおさめた後白河天皇側は崇徳上皇を配流し,天皇親政の体制をかためた。
 (中略)58年後白河は二条天皇に譲位して院政を開始,以後二条,六条,高倉,安徳,後鳥羽の5代30余年にわたって院政をしいた。院政開始後まもなく源氏が失脚し(平治の乱),武門棟梁平清盛が勢力を伸ばし始める。
 当初後白河院と平氏とは協調的関係にあったが,平氏の専権化にともない両者はしだいに対立するようになる。その最初の表面化した事件が77年(治承1) の鹿ヶ谷事件である。院はその後も平氏への圧迫を停めず,79年平盛子,同重盛が死没するとその遺領を没収するに及んだ。こうして同年11月ついに清盛はクーデタを敢行し,院を鳥羽殿に幽閉して院政を停めた。しかし翌80年より以仁王の挙兵,諸国源氏の蜂起が相つぎ,同年暮れには清盛より院政再開の申請があり,ほどなく院政が再開された。

綱掛祭 (インターネットで検索他)
 新熊野神社(いまくまのじんじゃ)午前10時30分から。来る年を願って、当社のシンボル「大樟」に氏子崇敬者たちが、長さ約15m、直径15cmの大注連縄を掛ける勇壮な年末の風物詩。
 「大樟」は、熊野より移植、上皇お手植、熊野の神降臨の霊樹と伝え、樹齢九百年になる。昭和7年4月に天然記念物に指定。

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)
 「伊勢へ七度、熊野へ三度」とか、「蟻の熊野詣で」と歌われるなど熊野信仰が盛んな平安末期、後白河上皇は平清盛に命じて紀州国(和歌山県)の熊野の土砂材木をもって、社域を築き、社殿を造営し、聖地熊野をこの地に再現。
 熊野三山の神を勧請して熊野の新宮即ち新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を創建したと伝えられている。しかし、その昔を物語る生証人は、上皇お手植えの「大樟」のみという。ご祭神は、イザナミノミコトを始め、12社の神々に併せ後白河上皇。
 

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(2005.12.24)

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